プロローグ「天変地異21世紀」
「またこんな大きな地震を経験するなんて…」
新潟県中越地域から通院されている患者さん達は異口同音に話される。
古くから「火の国」つまり火山が多く地震も頻発するため、そう呼ばれる事もあった日本。自然の営みの中で通常・日常に慣れてしまうのがヒトの習性である。
そして異常事態にホンロウされ続けてきた人々の歴史。そんな驚異に対して 「成す術あり」 を理想目標として科学は利用されてきた。
15世紀ルネッサンスの頃、ガリレオの「地動説」もニュートンの「引力の法則」も真理への探求心と自然への知的好奇心により法則が見いだされた。 レオナルド・ダ・ヴィンチは眼鏡を使い中世カトリック教会に叱られた。そんな時代から約500年が過ぎ、現代の先進諸国はどんな風に発展したのだろうか?
ホログラフィー、水素エンジン、携帯電話、ファイバースコープ、MRI、遺伝子工学、バイオケミカルナノテクノロジー…etc.
私が子供の頃「空想の世界」にあったものが現実化している。
それで? それで? それで?
震度6の地震で原発の敷地内から黒煙があがるの?
倉庫に置いてある核廃棄物を入れたドラム缶が倒れフタがあいちゃうの?
私達の住む世界はとても奇妙なことが起こる。
人智の持つ驚異的な科学力と現実にそれらが活用されている貢献度との間に大きな違いが見えることがある。それらはさも「科学万能」であると思い込んでいる傲慢さから生じてしまうヒトの怠慢が引き起こすのであるが…。
本質的に科学は認識論であり方法論であり手段である。使い手はヒトであり、ヒトの意識である。
話は変わって、天災に対する行政では私はすぐ「姫川治水」という公共事業を思い起こす。
天変地異が起こるとき天災と人災が混じり合う。避け難き事は仕方ない。しかし避けられたかもしれない被災に対しては二度と起きないように対策を練り実行に移さなければならない。
1964年新潟地震の時、私は線路の枕木にしがみついて四つ這いになっていた。波打つ線路を見て「地球最後の日」だと思った。今回の地震では自宅台所で食器棚を押さえていた。ベニヤ板で補高していたが、もうちょっと補強することにした。
被災地の方々だけでなく、心を痛めている人々の労は想像を絶するものであると思う。
でも、うなだれないで!! 顔を挙げて!
人智と経験を統合して未来に教訓を残すべく、やるべきことがあるはずだから。
