丸山リハビリテーション診療所 新潟漢方研究所

2006年の「丸山所長の今月のメッセージ」

2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 2008年 2009年 2010年 2011年 2012年〜

2006年1月

シリーズ4 医の話(その2) 東洋医学

 新年あけまして、おめでとうございます。

 東洋医学と言えば、漢方薬・鍼灸・気功療法などを思い浮かべます。いつから西洋医学vs東洋医学的な捉え方がされたのでしょう? 現代日本医学界では欧米の呼称としての alternative medicine を訳して、東洋医学を「代替・補完医療」のうちの1つに位置づけています。
 本来、私達人類には各々の国・民族に個有の医学がありました。各々の生息地域で特有の病気や症状(そこには民族全体の遺伝的素因も加わっているのですが)に対してその地の自然の薬草やミネラル補給、温泉等を用いて緩和を図っていたのです。例えばインドのアーユルヴェーダは、紀元前11世紀頃にあった内科的医学書が紀元前2世紀頃に集大成されたものです。内容的にはまず体質(ドーシャ)の分類があり、治療法として食養生、薬草の用い方及び強壮の為の日々の過ごし方、また油を用いたマッサージ法などが述べられています。
 また、漢方(漢の方法/中国伝統医学)やユナニ医学(トルコ伝統医学)にしても、基本は体質の分類から始まります(症状に対して1対1対応の薬をあてはめようとする現代西洋医学とは大違いです)。そしてさらに生命観、つまり生命の本質的構造についても洞察されているのです。そこが、いわゆる東洋医学と呼ばれている医学の1番凄い所だと私は思っています。
 その生命観の理解の仕方は様々あると思うのですが、私なりに要約すると以下のようになります。
 「存在の本質は意識(魂)であり、死しても死なず。個は心であり、意識の気(プラーナ)を巡らせ、顕れとしての物質的肉体を維持していく。」

2006年2月

シリーズ4 医の話(その3) 西洋医学

 一口に西洋医学と言っても国によって提供のされ方は違います。私が留学していたシカゴの大学病院や、視察に行ったカナダのブリティッシュコロンビア大学病院、また中国西安の市民病院も全く異なるシステムやかなり異なる治療方針等がとられています。その違いは各国の経済状況や医学部教育、および国民の医療に対する捉え方の違いを反映しているものと思われます。そしてその根底には保険制度の影響があるのです。
 日本の医療は「検査漬け、薬漬け」と言われ始めてもう20年位経つのでしょうか? 私が医者になった平成2年、厚生省は「外来で処方する薬は患者さん1人に対し10種類まで!」という原則方針を出しました。「エッ! そんなに出すの?」とまだ処方するのが恐い若くない研修医の私はビックリし、色々な処方箋をチェックしてみました。なんと私が見た処方で最高数は17種でした。その薬を全部畑に播いたら雑草も枯れてしまうだろうなぁ…。人の身体は解毒の肝臓・腎臓はあるものの、自然の一部で大地や植物と同じ様なものと考えていた私にとって驚愕の現実でした。しかし、そのような体験のおかげで漢方の勉強が始まった訳ですから、今となっては良い契機だったと思っています。そしてその後も医療現場ではビックリすることだらけで一層勉強に拍車がかかり、疲れます。
 さて約5年ほど前の私のある文書の一節を挙げます。
 
  現代日本の西洋医学を基調とした医療現場で私が問題視していることは、
   ・ 抗生物質による菌交代現象と免疫力低下
   ・ 生命維持装置の漫然使用
   ・ 寝たきり老人の増加
   ・ 高額医材の頻用
   ・ 仮説的前提から出発した現代科学であることを忘れた盲目的科学信仰
   ・ 癌・エイズ・痴呆に対する人々の過大な恐怖心
   ・ 健康を希求する人々に対する情報の氾濫
   ・ 手をかざし痛みが和らぐ現実の存在
 
 この文書をまとめながら、私は自分の医のスタイルを確立するために開業する決心をしたのでした。

2006年3月

シリーズ4 医の話(その4) ウイルスと抗生剤

 10年程前までは、新聞やTVで「ウイルス」という言葉を見かけるのは冬の風邪シーズンくらいだったように思います。近年はエイズ(AIDS)、サーズ(SARS)、鯉ヘルペス、鳥インフルエンザ、ノロウイルス等々、ウイルスの名前がよくメディアに登上しています。
 地球が誕生して約37億年(色々な説がありますが年数については一番確からしいと思う私見です。以下も同様。)ウイルスが発生して20億年、ヒト型種が発生して約700万年。地球上でウイルスは原初の生物であり、生命の源泉でもあるのです。私達の生命はDNA(デオキシリボ核酸が繋がったもの沢山:遺伝子)により代々受け継がれ、生体維持の為に色々な反応をくり返すことができます。DNAは設計図だったり蛋白質やホルモンの製造レシピでもあるのです。そして、そのDNAを1ヶとり出しアミノ酸をちょっと付けるとほぼウイルスの体になります(RNAタイプもあります)。だからウイルスを殺す薬を発明しようとしても、生命あるものすべての存在に関わる影響を考慮しなければならない難しいテーマとなるのです。
 さてパスツールは1861年、口の長いフラスコを使って実験し「目に見えない微生物が存在する」と言いました。その後、人間社会は光学顕微鏡を開発しバクテリアを知り、現代は電子顕微鏡が1nm(ナノメーター)のウイルス像を見せてくれます。そこから私達は何を学ぶのでしょうか?
 「憎っくきバクテリア! ほら、この薬を入れてやる。1匹、1匹づつパンッと融解して行く様は証拠になる。この映像でこの抗生剤は売れるぞ〜。」
 確かにバクテリアやウイルスを敵視する背景も理解できます。人の生命をおびやかす重症感染症には抗生剤は不可欠です。そして歴史的にもペストやコレラ、結核など様々な根深い記憶を私達は持っているのです。しかし…それで私達は健康になったのでしょうか?
 数年前の内科学会で「風邪はウイルス感染なのだから細菌感染がないのに、予防的に抗生剤を出すのは止めよう」という内容で話し合いがありました。副作用に加え免疫力が低下する可能性があるからです。当院では細菌の所見がない場合、決して抗生剤は処方しません。近年、抗生剤の効かない細菌種(株)が出現し「菌交代現象」と言いますが、少しずつ増えてきています。バクテリアの変異と抗生剤の開発という追いかけっこはいつまで続くのでしょう?

 サッコンのウイルス騒動は彼等が強くなったのか、我々ヒトが弱くなったのか、ハタマタ人が手を加えたウイルス(生物兵器)が原因なのか?

 私は… 悠久の時が織りなした調和とすべての生命の躍動を尊重したいと思っています。私達ヒトはバクテリアやウイルスも含めて多種多様な微生物で埋め尽くされている海に生まれ落ちた種なのです。そして、それらの環境と折り合いをつけて生き存えてきたのです。微生物は私達の身体の中でも沢山生きています。時と場合に応じ、私達の免疫が働き顆粒球やリンパ球という細胞が戦ってくれます。だから、適正に反応してくれる免疫機能を維持することが、健康であることの必須条件となります。

2006年4月

シリーズ4 医の話(その5) …一息ついて

 今回はテーマを「生命維持装置」と予定していました。メディアを通じて皆さんも御存じと思いますが、T県I病院での人工呼吸器の扱いについて、その行為の是非が議論されている最中です。医療現場で恐らく最大の葛藤である「生命」の定義・倫理についての問題です。犯罪か否か? もう少し一般市民、当事者、各種団体等の動き、法の扱い等の経過をみてコメントして行きたいと思います。

 さて、一息ついて。
 私の職場はもちろん診療所です。当院がテナントで入っている建物には大きな庭があります。4月になるとキジの夫婦が庭の木立でくつろぐ姿が見られます。今年は3年目にしてお嬢ちゃんを連れてやってきました。母鳥の後にくっついて芝生を散歩しています。また、たぶんムクドリだと思いますが、20羽位でやってきて集団で庭を横切って行きます。餌を探しながら忙しそうに芝をつついています。10日程前からは昼間にカモのつがいが庭のプール(鳥達のためにあるようです)で過ごしています。プールサイドで寄り添ってじっとしていたり、水浴びしたり、泳いだり、とてものどかな眺めです。庭の桜も今満開です。
 毎日なんだかストレスフルで… うんざりしている時、そんな庭の光景があると「まぁ、いいか」と思えてしまいます。大自然と動・植物達に感謝です。

2006年5月

シリーズ4 医の話(その6) …予定

 5月は毎年、私にとって一番疲れてしまう月です。考えがどうもまとまらないので、医の話はちょっと先送りします。

 現段階での今後のメッセージの予定をお知らせします。
   シリーズ 5. 自然観
   シリーズ 6. 社会観
   シリーズ 7. 存在の本質
   シリーズ 8. 意識と想念
   シリーズ 9. 実在
   シリーズ 10. すべての存在のために

2006年6月

シリーズ4 医の話(その6') 生命維持装置

 生命維持装置と言えば、人工呼吸器が代表的です。今后科学技術の進歩に伴い実用的な人工心臓等が恒久的に使われるようになれば、生命維持装置のカテゴリーは拡がって行くでしょうが、今回は人工呼吸器と脳死について考えてみたいと思います。
 さて、T県I病院に関する報道は、数カ月で移り行くサプリメントブームと同じだったのでしょうか? メディアはなぜ、事実・真実を追求しないのでしょうか? それとも、私がTVを殆ど見ないから知らないだけ? でもスタッフも知らない。
 人工呼吸器がなかった時代は、心停止をもって「死」と判定していたのですが、現代は臓器移植の懸案も加担し、「脳死」という言葉が登場しています。さらに延命や緩和医療の現場では、「安楽死・尊厳死」という言葉も聞かれます。私の医者としての概念を伴う「死」の語彙の中には「自然死・病死・事故死」しかありません。「安楽に生きる」「尊厳を持って生きる」という言い方はありますが…。
 救命救急の現場では、救急車が到着すると一刻一秒を競う処置が施されます。呼吸もしておらず、心臓も止まっていれば気道確保のための挿管をしてルート(点滴用)をとって、出血部位があれば止血して、心臓マッサージ、同時に昇圧剤、それから…色々と…。そしてめったにないことですが、心臓が動き出せば、人工呼吸器を装着するのです。その後、自発呼吸が出現すれば蘇生したということになります。
 しかし、数日経っても自発の呼吸が出現せず、心臓が動き続けていると、主治医の頭の中に「脳死の状態かな?」という思いが湧いてきます。
 昭和60年厚生省は脳死判定の為の「基準」を、平成3年には 「補遣」というものを提示してくれました。(詳しい事は、ネットの「脳死」で検索して下さい。)私はその中の無呼吸テストというものは脳死判定後の確認所見として受け止めています。また私は必ずABR(聴性脳幹反応)検査も行います。そして、色々な項目で確認作業が続きます。2人の医師が数日の間をおいて二度各種検査をし、脳波、反射等々の結果を受けて「脳死」の総合判定が成されます。のべ6人の医師が真剣に関わる世界です。決して、いい加減なことや曖昧な事があってはならない事態なのです。ロックイン症候群や植物状態、ALS(筋萎縮性側索硬化症)等を「脳死」と間違える事は決してないのです。
 ところで「脳死」と判定された場合の後も一様ではありません。脳死状態でも人工呼吸器を装着していれば心臓は数日から数カ月間動き続けます。心臓は電気的な自動能というものを備えているから、酸素と点滴さえ供給されればしばらく動き続けるのです。
 どーしたら良いのでしょうか? 昔と同じように心臓が止まるまで医療行為を、そして家族の付き添いを、高額医療費負担を続けるのでしょうか? 
 ある患者さんの病理解剖(剖検 ともいいます)に参加したことがあります。脳死判定から1週間程経過されていました。通常、脳は結構硬めの組織なのですが、脳をくるんでいる硬膜を切り離し取り出そうとした時、あまりの柔らかさにビックリ! 指の間からこぼれてしまうのです。まるでちょっと硬めのヨーグ○トの様(食品メーカーさんゴメン)「これが脳死の脳だ!!」融解壊死という蛋白変性が起こっているのです。決して目覚めることも、決して微笑むこともありえない、人の死。
 脳死の総合判定後、家族にそれを伝え今后の相談をします。家族の同意があって初めて人工呼吸器を止めるのですが「まだ、しばらくこのままで…」と言われることが多い。私は生きている人の思いを汲みたい医者なもんだからそのまま が続く。「この暖かい身体に触れていたい」あー、その気持ちわかります。
 脳死を人の死とするならば、厚生労働省はその厳密なる脳死判定後の人工呼吸器の扱いをも基準化すべきである、と私は考える。

2006年7月

シリーズ4 医の話(その7) 寝たきり老人(1)

 あなたは将来「寝たきり老人」になりたいですか? なりたくないですか? 「長寿国ニッポン」光と闇。現在、日本には約120万人の寝たきり老人がいると言われています。ウーッ なりたくなくてもなってしまうものなの? ちょっと回りを見てみるとカンバンには書いてないけれど皆が知っている○△老人病院。老人保健施設(老健)やら特別養護老人ホーム(特養)やら、豪奢だけど田畑の地区に老人向け建造物がある。街から離れて駐車場は広く、そして一応リハビリルームもつくってある。
 厚生省はゴールドプランを平成元年につくった。何10年にも及ぶ老人対策プロジェクトの立ち上げである。平成12年介護保険が導入され、重度障害者を取り巻く環境に混乱を与え、この春、平成18年度の診療報酬改訂では病院から老人を追い出そうとする意図があるとしか思えない変化があった。ニッポンという国は、国民をどうしたいのだろう? 省庁の担当者が変わる度に異なる方針が見え隠れする。
 平成11年から3年間、私が県の地域リハビリテーション(以下リハと略)推進事業の作業部会長をしていた頃、特に行政や役人さん達と関わりが多かった為随分勉強させて頂いた。一般企業や常識的社会では有り難い体験をたくさんさせて頂いた。ただ一言、感想を… 「変!」
次々回のシリーズ 社会観で解決策を考えてみたいと思います。
 ところで何故私はリハ医になったのだろう? 整形外科の時、術後のリハがとっても重要なのだと気付いた。その後、予防的リハが大切だと気付いた。あまりにお粗末な福祉制度の中で、障害を持った人達がもっとアピールできるには… もっと笑顔に。そして家族の苦労が少しでも軽減できるには… どうしたらいいのだろうと悩んでいた。神経内科研修医の時、往診患者さん40数名担当になった。初めてあるお宅に伺った時、生涯決して忘れられない体験をした。
 私「ごめん下さい。□×病院の往診でーす。」家人は留守のようだ。同行の看護師さんが「いつも居ないんです。先生こちらです。」と言って玄関を上がり左手の廊下を進む。右側には台所、椅子にはランドセルが置いてある。少しづつ異臭が漂ってくる。案内された部屋のふすまの前で、私は相当な覚悟をした。少し自分の足が震えているのを感じながら、ノック、ノック「失礼しまーす」 ザッとふすまを開けた。薄暗い6畳間に体重35kg位と思われる御老人が1人、ふとんのへりを気にしながら這い廻っていた。廃用性の筋萎縮と思われる。立位や座位は不能。でも麻痺はなさそーだ。呼吸音も心音もしっかりしている。一言も発せず会話は成立しない。枕元にはひからびたかじりかけのおにぎり1ヶ。シーツには御飯粒があちこちで固まっている。浴衣ははだけ、おむつははずれかかっている。一通りの診察を終えカルテに記載し終えて、私は涙ぐんでいた。「温タオルをたくさん持ってきて頂戴!」私は部屋のゴミを片づけ始め掃除をした。看護師と2人でその方の全身を清拭し、おむつを変えた。「こんなこと無意味だ! 毎日私が来る訳じゃないし、数日後はまた同じ状態になるじゃないか!」私はその方の肩に手を置き「頑張ろうね」 でも空虚な眼差しはおびえたままだった。
 そう、色々な強烈体験を通し、私はマニュアルとおりの医者でなく、また専門領域に固執せず、保健 ・医療・福祉全般の領域で医のあり方を問いたいと思ったのです。それで結局リハ医なのかな? 
 次回は寝たきりに何故なるのか、考えたいと思います。

2006年8月

シリーズ4 医の話(その8) 寝たきり老人(2)

 私が医学生だった32才の時、母は胃癌で、翌年父は脳血管性パーキンソニズムによる誤嚥性肺炎で他界した。幸い(?)私の家系は癌が多い為、身内や近い親族に寝たきり状態が長期に渡る人はいなかった。あなたの身近に、いわゆる寝たきり老人と呼ばれる方はいますか? いましたか?…スタッフ弁「うちのじいちゃん93才、昼でも寝てばかりいるけど、トイレや食事は粗相はあっても自分でやろうとするし頭はしっかりしてるから寝たきり老人ではないと思う」そうですね。ここで「寝たきり老人」という言葉の意味を考えてみましょう。
 私の手元に「寝たきり予防総合戦略に関する研究事業…」平成12年3月.という国がつくった冊子があります。そこでは寝たきりの予防は「脳卒中、骨折、各種の疾病を契機とする廃用症候群等により障害を生じた高齢者が、要介護状態とならないための効果的なリハビリテーション(以下リハと略)が提供されるよう…云々。」と書いてある。逆に言えば、何かがきっかけでそれまでの日々を過ごすことが困難になるような障害が生じた場合、効果的なリハがないと高齢者は要介護状態になり易いということです。しかし、要介護の程度が寝たきり度を表す訳ではありません。さらに、どんなにリハをやっても成果が上がらない場合もあります。そして介護保険の認定や障害の診断にいつも苦慮するのですが、認知症(痴呆)や徘徊、衛生観念の欠除や被害妄想等々、身体的には殆ど不自由がなくても家族や人の手を沢山必要とする状態をいかに評価すべきか難しい所なのです。
 したがって要介護という言葉には、概ね身体的機能の障害という寝たきりに移行してしまいがちな病態(麻痺や痛み)や廃用症候群(心肺機能や筋力の低下)が存在していることが要件となります。ただし、変性疾患や頚髄損傷(四肢麻痺)等の方々は、御本人の意欲や意志がどんなに強くても身体が思うように動かない為要介護となっている訳で、私は「寝たきり老人」の範疇には入れません。
 かつて人は、食べられなくなると衰弱して死んで行きました。現代は経管栄養、胃ろうや中心静脈栄養という手法があり、多くの方が生き存えています。以前勤務していた病院では「寝たきり部屋」という、それは恐ろしいあだ名をつけられた大部屋がありました。殆どの患者さんは経管栄養で、2-3時間に1回の体位交換をされて褥瘡予防、排泄はおむつの中、決して回復が見込まれない状態の高齢者、そこでは奇声はあっても苦情はなく、何故か家族からの文句もなく淡々と同じくり返しの日々が過ぎて行く。私は「寝たきり部屋」ではなく「寝かせきり部屋」と命名しました。
 さて、では「寝たきり老人」とはどういう定義なのでしょう。実際は、人それぞれ異なるものだと思います。イメージは皆、体験や情報から創られるものなので一般化することは難しいのです。それ故、私のイメージをお話しするしかないのですが…。「寝たきり」とは御本人がその状況に疑問を感じていない、もしくは葛藤があっても「寝たきり」が許容されている状態であると考えます。
 たとえば、身体的に特に障害がなくても意欲や自主性の欠落から寝てばかり居て、身体能力が退化していき活動することが苦痛になってしまい、最後は寝返りもうてなくなる。痴呆と廃用症候群の組み合わせが多く見られます。また、身体的に疾病の後遺症等があっても極力発症前の生活に戻ろうとする人はリハがあろうがなかろうが、それが原因で寝たきりには殆どなりません。人は向上心と克己心を持っていれば、そう簡単にはgive up しないもので御本人なりに不自由ながらも努力を続けておられる高齢者には学ぶ所が多いのです。
 さて、何故「寝たきり老人」になるのだろう。皆さんにも考えて頂きたいと思います。ここで一つ、私が寝たきり老人になりたいと仮定しましょう。どうしたらなれるのだろう? 確率的に高い方法は? 事故を期待しても確率は低い…。あまりに痛いのも苦しいのも嫌だし…。生活習慣病が無難かな? 全国700万人の高血圧症、まずその仲間入りを果たすのだ。カロリーの高い味の濃いもの沢山食べて、当然酒・タバコは止めない。身体に良い運動なんてもってのほか。血圧あげて動脈硬化を目標とする。50才代から少しずつラクナ梗塞(脳CTで小さい梗塞があちこちに!)つくり出し、まだら痴呆は60才代で始めよう。生活習慣を変えないで、頑固ものと呼ばれ始める。飽食とゴロゴロ日常を連ね、脂肪もつけて骨をもろくして…。? ある時つまづいて転ぶかも!骨折は痛いから、BMI注)23あたりの体重で踏んばれる程度にはしておきたい。水は飲まずに血液をドロドロに維持することが重要だ。60代後半でちょっと大きな脳梗塞発症! リハがしっかりしている病院に入ってはいけない。そしていつのまにか「寝かせきり部屋」が終いの棲家になる。
  注)BMI:体重(kg)÷身長(m)÷身長(m)

2006年9月

シリーズ4 医の話(その9) 脱線話で「博士号」

 世の中、資格やら肩書きやら色々なものが溢れている。私が10代から敬遠し、今でも続いている最たるものは肩書きや地位、立場で威張る人間である。
 私は21才の時、空手を一般向け道場で習い始めた。無駄のない動きやスピード、人体の持つ機能美に魅せられてハマってしまい、人の倍くらい稽古をしていた。いつのまにか人に教えるようになっていたが、帯の色には無頓着だった。再三、昇段審査を受けるよう勧められたが気乗りがしなかった。
 「道」の世界に関わったことのある方なら理解できると思うのですが…。
 実力とはちょっと違う部分での評価(?)が存在しているように思えるのです。全く、残念なことだけれどお金を払えば段位や資格が手に入るような現実もあるのです。
 ある時、私の教え子達が初段を受ける時期がきた。私が茶帯で門下生が黒帯というのも道場として何かカッコ悪いか(?)と思い、二段を取った。しばらくしてその人達が二段を受けると言う。仕方なく四段を取った。その後四段を受けると言う人が居らず私は審査を受けずに済んでいる。
 さて、医の話に戻って。日本では博士号で最も取りにくいのは文学博士号らしい。そして最も簡単に取れるものは医学博士号らしい。なるほど、医者の世界には博士が山ほど居る。
 私は16才の時「特殊相対性理論」についての本を読み感激した。それ以来尊敬する人物像はアルバート・アインシュタイン博士である。私にとって「博士」というのは他の誰も追従できない発想と理論化できる頭脳と、根底には純粋な真理への探究心があり、また人類を愛するふところの深さを持っているあくなき努力家のことである。そんなイメージを持っている私が博士号を取ろうと思う 事はおこがましい感じがしてならないのである。そんな肩書きは不要! ただアインシュタイン博士のような学者、人間になりたいと秘かな憧憬は持っている。

2006年10月

シリーズ4 医の話(その9′) 脱線話で「物理学」

 アインシュタイン博士は「神はサイコロをふらない」と言い統一場理論を構築しようとした。その后も多くの物理学者が挑戦しているが式が作れない。この世界にある5種類の力、そのうちの重力だけが異質で上手くまとめられない。
 何故かというと(私の考えですが)、この世界が変化していく為の要素として重力場があるからだと思う。カオスを生む、進化を生む、それらを確率的に予測するには多くのパラメーターを必要とする自在なエネルギーの出所がなければならない(これは不確定性原理とは違います)。博士は宇宙創造主というつもりで「神」と言ったと思うが、きっとイメージは厳格なる父親のような感じなのだろう。融通の利かない、曲がったことが嫌い!みたいな…。でも私のイメージは遊び心たっぷりの、そしてどこか寂しげなやんちゃな子!なのである。
 ヒトと同様に星も物質としての体を持ち、オーラ(物質の外にはみ出している生体磁場)を持ち、次元は異なるけれど意識も持っていると思う。各々の誕生からの進化レベルに相応した意識の波動エネルギーを持っており、ヒトも星も質量でなく意識波動のエネルギーの強弱及び種類の違いで場の引力に差が生じてくるのだと思う。
 最近、女性理論物理学者のリサ・ランドール博士が43才にして、この世界が五次元であることを証明した。特殊な顕現として下位次元が存在しているらしい。三次元を超えるものは物質世界(私達が5感で認識できるもの)ではなくspiritualの世界である。例えば第六感とか、虫の知らせとか、共時性とか目に見えない波動情報つまり想念や意識の世界である。まさに「色即是空」を数式で表現したと言えるだろう。また、宇宙物理学では180億年前の光が観測され、150億年前のビッグバーン説が検証されている。
 おもしろいですね。この世界の仕組み・からくりって、どーなっているのだろう?これからは物理学がこの世界の本質・真理をどんどん明らかにして、誤謬に満ちたおぞましい固定観念を消し去っていくのだと思う。そして医の世界も同様である。波動エネルギーの停滞や乱れが具現化され不調和な現象が起きてくる。つまり、中国伝統医学で云う「気の流れ滞る所に病いを生ずる」なのである。これもまた「空即是色」の世界である。
 さて、ふと思う。アインシュタイン博士がA・E・パウエル編著ブラウツキー女史の「神智学」を愛読書としていたならば、ひょっとすると統一場理論は完成していたかもしれない、と。でも、たぶん無理。「神はサイコロをふった」のだから。

2006年11月

シリーズ4 医の話(その10) 高額医材

 私の友人の知り合い(Aさんとする)が他界された話から。
 「癌が心配」でPET(ポジトロン断層・コンピューター断層複合撮影:放射線でラベルしたブドウ糖を用い増殖中の癌細胞をみつける)検査を受け「癌はありませんよ」と言われ安心していたのに、半年も経たないうちに膵癌で亡くなられたそうです。—合掌—
 PETとは放射線を身体に対し内からと外からのダブルで用いた画像診断装置で"1mmの癌も見つける"が宣伝文句らしい。当院のようなちっぽけな診療所にも"買いませんか?" とパンフレットが送られてきた。購入費用12〜14億円!!! 設置する部屋づくりに1億から2億円かかるしろものだ。最新の診断装置と言われているが、厚労省はすでに癌の診断がついている13疾患の場合とてんかんと虚血性心疾患のみ保険適応を認め一検査86,250円という診療報酬になっている(3割負担ならば窓口支払いは25,875円となる)。従って検診では自費払い(相場は一検査15〜20万円位)となる。当院はレントゲン検査機器すら置いていない。患者さんの身体に悪影響を及ぼす可能性のある検査は一切行わないポリシーである。だから買うわけない。
 さてPETについて考えてみよう。例えば1mmのものを探すには1mmづつの断面を調べても見つからない可能性がある。だから大体0.5mmづつの切断面を画像として取り込む必要がある。となると一検査でどれだけの放射線を浴びせるのだろう? Aさんが検査の時点で本当に癌がなかったならば数カ月で生命を落としてしまう事は考えられないことだ。通常、癌はその組織によっても異なるが1個の癌幹細胞が増殖して生命をおびやかすようになるまで、数年から20年位の時間がかかると言われている。だから腑に落ちない。たとえ検査の時点で1mm未満の大きさだったとしても、4,5ヵ月で癌を原因として亡くなる事は信じられない。そこで思うに大量の放射線を浴びた為に免疫系に不均衡が生じ癌化が促進され、しかも膵癌は小さくても致命的になることが多いから起こってしまった事例ではないかと憶測するのである。
 しかし1mmの癌を見つけたら医者達はどう対応するのだろう? 消化器系の癌に抗癌剤は殆ど効果がない。外科的に手術をするはずもない。1mmだし切迫した状態でもないし、消えるかもしれないので様子をみることになるだろう。例えば内視鏡で小さなポリープを取るような処置をしようとしても胃や大腸で1mmを見つけるのは容易ではない。空気を入れてふくらませても、ヒダの影で平坦な粘膜下だとたぶん見つけられない。結局数カ月に1回のPET検査が予定され、患者さんの「癌がある!怖い、どうしよう!もうじき死んでしまうのか?」という恐怖心が残るのである。臨床症状があれば無作為でなく合目的的な必要検査をして、それなりの治療が進められるが「1mmの癌」に対して現代西洋医学は治療方針を持っていない。なのにPETを購入したがる医者(病院)がいる。診断と治療というのは同じ土俵になければならない。診断のみ先行しては混乱と落胆を引き起こすだけである。検査機器メーカーは治療を考慮していないのだろうか? 診断技術が上がればそのうち治療方針に変化は生ずるものの、それまでの間多くの患者さんに混乱を与えることになる。
 また、私が循環器研修医だった頃、心臓カテーテル検査のやり方を初めて先輩医師から教わった時のこと。鼡径部から心臓まで血管の中に細いチューブを送るのだが、うまくガイドワイヤーを進められず出し入れしていると「それ、10万円だからね…」つまりワイヤーが変形したり断線すると、また1セット入りの袋を開けなければならないというプレッシャーだった。その頃私の給料は手取りで20数万円。「弁償するんでしょうか?」「いや、いや。そんなことないけど病院の持ち出しになる」冷や汗ものだった場面と、すごい緊張感を今でも思い出す。
 そもそも医療現場では高額の医材が多すぎる。最近は治療の為の検査ではなく、ただ経過をみる為だったり、健診で通り一辺の表面的検査だけで人々に安心を与えすぎたり、基礎研究用の検査機器が臨床現場で誤用(例えば血液の流れをみる装置など)されたりと、日本では本当に検査漬けの医療が横行している。日本人は何でもすぐ欧米先進諸国と比較するが、ちなみにCTという検査機器を日本はアメリカの9倍も保有している。
 何故?
 ……どこまで言って良いものやら?……
 みなさんにも考えて頂きましょう。

2006年12月

シリーズ4 医の話(その10') 高額医材

 12月になりました。引き続き高額医材に関連する話をします。
 まずは当院のドクターの意見から。
#. H.O.医師
 臨床の場や医学教育で“客観的データ”を偏重しているのは明らかである。また患者さん側も医療機関にかかる際、設備の整った方を選ぶ傾向にある。しかしそれだけでは高額な機器を導入できない。診療報酬という経済的な裏付けがあってのことである。ある検査を保険適応にするかどうか、点数をいくらにするかで普及度は全然違ってくる。厚労省は自分たちの意図を診療報酬という形で表す。すなわち、CTが日本で保有台数が多いのは厚労省の方針である。彼らは国民の健康を第一に考えるべき立場にあるのだから、CTが多い方が国民の健康に寄与すると考えたのであろう。しかし現状はどうであろうか。どこも検査予約がいっぱいで必要な時にすぐ撮影できないとすれば、対策が必要だろうし台数を増やすのも選択肢の1つだろう。しかし、今や診療所でCTを備えるところも珍しくなく、それらがフル稼働しているとは思えない。病診連携を強化するなど、もっと効率よく機器を運用することは可能なはずで、それこそ診療報酬の点数付け次第でいかようにも誘導できるはずである。また、ある検査が普及してくると厚労省は診療報酬の点数を下げてくる。そう考えると、検査機器メーカーだけが利益を得ているのでは?と勘ぐりたくなるのである。
#. H.M.医師
漠然とした問題意識はあるのですが、言葉にしようとするとうまく表現できません。

 私の手元にリハビリの学会誌が毎月届きます。今月はとてもタイムリーに外保連(外科系学会社会保険委員会連合)のまとめたペーパーが載っています。“日本の医療費と医療を正しく理解するために”というタイトルです。ちょっとかいつまんでデータをお知らせします。
 日本の医療費は対GDPでみると7.9%で先進諸国の中で最低です。ちなみにアメリカは15%、先進7ヵ国の平均は11.5%となっています。そしてその日本の医療費31兆円のうち国が支出しているのは8兆円で、アメリカの1/10です。31兆円の使われ方は約8兆円が薬剤費、約2兆円が医材費です。また保険で使える薬剤の価格は世界一高く、医材も大変高くなっています。例えば不整脈治療に使われるリ○モ○ンという薬は日本では1錠90.5円ですが、アメリカでは66.8円、イギリスでは14.3円となっています。そして医材では狭心症や心筋梗塞の治療に使うPTCDカテーテルは日本では25.7万円、アメリカ7.1万円、イギリス6.0万円(H7年資料)なのです。経済産業省の資料では、ちょっと古いのですがH11年度企業の経常利益率は製造業平均が3.6%なのに製薬会社(大手15社)の平均は22.1%と大儲けなのです。また高額医材となれば輸入業者(商社)の利益は想像を絶する額になるのです。
 しかし現在日本の病院の70%が赤字経営なのです。医療現場では医師に労基法は適用されず、毎日大勢の患者さんにてんてこまいで疲れ果てている医師が多く見受けられる現状もあります。医師の殆どはかつて受験勉強を必死に継続して医学部に入り、6年間のカリキュラムで医学を学び、医師国家試験の勉強量も膨大で、医師になってからも現場で医療を学び、1人前になるには10年位の年数が必要なのです。そして当院のように疾病と共にその人も診るという医療であると30分〜1時間(初診時は2〜3時間)の診療時間が必要となるのです。にも拘らず保険での診療報酬は1230円です。1分で終わらせても2時間診ても同じ再診料・外来管理加算なのです。何てこった!! それまで学び培ってきたキャリアからくる知識と技術や、全人的医療を評価するいわゆる技術料というものが皆無なのです。となると、検査1件で3万円とか8万円とか検査漬けで売上げを維持したくなる気持ちもよく解る訳です。結局の所、医療制度の中の診療報酬のあり方次第でどのような展開も可能だということです。
 薬価を先進諸国の平均に合わせるだけで、恐らく数兆円の削減が可能でしょう。また厚労省の局長クラスの医療業界(各種協会も含む)への天下りを禁止にすれば、随分風通しが良くなるのではないかと思うのです。薬害エイズについてもアメリカから送られてきた「使わないで下さい」というFaxを8年間隠していたのは厚労省の責任です。さらに農薬問題については農水省の天下りと利権構造トライアングルが朝日新聞のAERA(2006.10.2)で指摘されています。公人が公人たることを忘れ、犯している罪のいかに大きなことか…。
 最近日本では談合やら不正経理などがメディアに話題を提供しています。現象としての「善と悪」の二極化が目立ってきています。色々な業界での内部告発も増えているようです。中近東、アフリカ、中国等、もう限界に来ている緊張感が見受けられ、この世界の二元性(分離感)の終焉を間近に感じてしまいます。そう、1人1人が現実に溢れている情報から何を学び、何に気付き、何を決意するのか?

 終わりは始まりです。混沌の末には調和が生まれます。
 すべてがすべてのものにとって最善でありますように。


このページの先頭へ戻る